本部 泰(もとべ やすし / ゆたか、1843年7月28日(天保14年7月2日) - 1915年(大正4年)3月19日)は、幕末の鳥取藩士、明治期の内務官僚。官選愛媛県知事。初名・勇之介。

経歴

因幡国邑美郡馬場町(現鳥取県鳥取市馬場町)で、鳥取藩士・本部平之丞元旦の嗣子として生まれる。文久2年(1862年)8月旗本幌組となり、慶応元年(1865年)12月調練世話役に就任。

文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件で義理の叔父・黒部権之助らが暗殺され、その報復として慶応2年(1866年)8月に黒部の遺族らが出雲国手結浦(現島根県松江市)で暗殺者の一部を襲撃した事件に参加し閉門を命ぜられた。慶応3年(1867年)5月に赦免となる。

明治3年(1870年)鳥取藩大監察・大属となる。その後、明治政府に出仕し、鳥取県六等警部に就任。西南戦争では陸軍省出仕・新撰旅団付として出征。以後、邑美・法美・岩井郡長、鳥取県少書記官、福井県少書記官、同大書記官、同書記官、宮城県書記官、京都府書記官などを歴任し、1897年に退官した。

退官後、帰郷し1899年7月に結成された帝国党に参加。1900年4月27日、第2次山縣内閣により愛媛県知事に登用された。県政の中心を土木・教育・勧業に置き、継続土木事業の延長、新しい十カ年継続土木事業計画の立案、県立商業学校などの開設、農事試験場・水産試験場・工業試験場の新設などを推進した。1904年1月25日、知事を休職。

その後に帰郷し、武徳殿・因伯尚徳会演舞場で剣術、弓術の指導などを行った。

栄典

位階
  • 1897年(明治30年)8月20日 - 正五位
勲章
  • 1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章

脚注

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
  • 家臣人名事典編纂委員会『三百藩家臣人名事典 5』新人物往来社 1988年。

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